精神の勘所を捉える上で、現実を生きる上で、一番いいバランスだと思っているのが、
身体・思考・感情は自分のものではない
これを認識するということだ。
正直、科学的に生物学的に霊的に見て、本当にそうかどうかはここではどうでもいい。
あくまで現実を楽しく生きることを考えた上で、どの道具を使うのが一番良いのかという視点が大事。
世にある心や精神に関するものとしては、ポジティブシンキングを代表とした様々なものがある。
けれども、しっかりとこれについての理解と実践ができていれば、ほとんど解決すると思っている。
ほとんど解決するは言い過ぎにしても、まずはここを抑えてからそれでもダメだったら他に手を出してみる、
という順序が良いのではないか。そう本気で思っている。
では、何が良いのか。
思考・感情はそこに浮かんでくるもので、自分ではコントロールできない
というのを実感できるのに尽きる。
大体の人はなぜか「身体・思考・感情は自分のもので、自分で何とかするもの」というのを疑いもなく信じ切っている。
本当の自分がなんちゃらと言う人は、宗教にハマった頭のおかしい人とぶった切ってしまう。
これでは人に対する理解がもったいなさすぎる。
つぶさに観察してみると、自分で思考しているようでただそこに浮かんできているのが分かるのだ。
本当に何もできない。
嫌だと思う思考・感情がただただそこにあるだけ。
そこにあるものを掴んでこれは私のものだ!
と言い張って、それを何とか変えようとして苦しんでるだけだ。
つまり、
本質的にはできないことに対して何かやろうとしているからそりゃ苦しい
というわけ。
自分のものだと思うと、ネガティブなモノは持っていたくないので何とか排除しようとしてしまう、
この排除しようとする”行為”が苦しさを生む。
実はネガティブな想い自体は苦しくないのだ。
あくまでそのネガティブを変えようとする“行為”が苦しさを生んでいる要因だ。
ここで最大のポイントは「自分のものではない」を採用しても、
ネガティブな想いがなくなるわけではない、ということ。
ネガティブな想いがなくなるのではなく、ネガティブな想いはそこにあるけど、
そのままでいいと自然と思えるようになる。
感謝した方が良いから頑張って感謝しようとする。
ポジティブシンキングした方がいいから頑張って良い解釈をしようとする。
そうではなく、
自分にはどうすることもできずただ観て感じることしかできないから、
ネガティブな思いも必要だから出てきたのだと思える。
ゆえに感謝が自然と生まれてくる。
こんな感じ。
でもこんなもの普通に考えたら、どうやっても自分で考えてるとしか思えないし、
手をあげようと思ったから手があがったし、
この文章を読もうと考えたから読んでいる、としか思えない。
だから修行したりして無理くりそういう環境に自分を追い込んで、
この感覚を得ようとする流派がたくさんある。
でも、本質的にはそんなことする必要ない。
もちろんやりたい人はやればいい、ただ好みの問題だ。
あらゆる手を尽くして、実験やワークをして、
その中から自分が良いと思うしっくりくるものを続けて、
一瞬でも本当にそうかもと思えたら万々歳。
ここまでが理屈の話。
じゃあどうするのか、Tlife的生き方を実践する際の心の置きどころを話そうと思う。
それは、
身体・思考・感情は自分のものではないのは知っているが、
日常生活上そうは思えないから、まるであたかも自分のものだとして使っていく
ということ。
元も子もないと思ったか、なるほどと思ったかはあなた次第だが、
人生としての落とし所はこれが一番だと思う。
スピリチュアルの世界では、身体・思考・感情は自分のものではない、
をそのまま日常生活に採用して生きている人(生きていこうとしている人だろうけど)はいるが、
どうも地に足がついていないように見えるのは僕だけではないはず。
構造として、本質的にはそうだと分かった上で、
日常生活とバランスを取りながら生きる、というのがTlife的生き方の根幹だ。
- 現実は内面の投影
- 手放す
- 受け入れる